【投資について語るときの愛と追憶】「株式市場に向き合うときの引き裂かれた心情について」 by 黒猫投資家
先日、休みをとって平日にゴルフにいき、カートで移動しているときに、元総理の安部さんが銃撃されたというニュースの一報を読んだ。詳細な情報がなくとも、重大な事件が起きたことはわかる。ニュース直後には、この事件の背後関係も犯人の動機もわからない、そんな状況であった。そして、それは午前11時半を過ぎており、東京証券取引所が午後12時半に開始するまでの昼休みのあいだのことであった。
衝撃を受けると同時に、私は、この事件が午後の東証の相場にどのような影響を与えるのだろうか、としばし考えこみ、さほど影響はない、と結論を出した。なぜなら、安部氏は元総理であり、現在の首相でも、日銀総裁でもない。ファンダメンタルにも政策にも直接、短期的な影響はないからだ。
実際、一時的に日経平均の売りが膨らみ、少し相場は弱まったようだったが、その後徐々に回復し、上昇傾向となった。弱含んだタイミングで、私は、以前から買いたいと思っていた高配当株をいくつか拾い、持っている銘柄で多少下がったものがあっても気にしなかった。
こういう事件や災害が起きた時、マーケットにはどういう影響があるのだろうか。買い場なのか、売り場なのか、我慢してホールドなのか。こういった思考を瞬時にめぐらすようになったのは、おそらく東日本大震災以降かもしれない。リーマンショックの時には、初めて経験したマーケットクラッシュだったので、どのように対応すればよいのか、経験や心構えがなかった。当時勤務していた外資系の金融機関で、本社の外国人が東京に来た際に、「マーケットクラッシュが起きた時にはどうする?」と尋ねられ、「マーケットクラッシュなんて起きるんですか?」と素朴に答えていたくらいの素人だったのだ。
東日本大震災、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、いずれも大勢の人の命に影響する不幸な事象で、テレビを見ていると無力感にさいなまれ、憂鬱な気分が晴れない状態になる。にもかかわらず、私は頭の半分で、このことをマーケットはどう受け止め、市場はどこに向かうのか、と考えるのである。非情なのかもしれない。
人の命を金儲けの機会の情報として私は消化する。
そういう本心を他人に話すことははばかられるので、無言で孤独に投資する。
東日本の震災の津波や火災の映像をみたとき、大勢の東北の日本人が苦しんでいる、動物たちが餓死している、と知った。だが、同時に関東直下型の地震ではなく、日本経済に致命的なダメージはない、と考え、いずれ、市場は回復すると考えた。
コロナ禍が始まった時も、私の保有銘柄は大きく値を下げたが、旅行やインバウンドがだめでも、オンライン診療やリモートワークの銘柄に投資を開始した。
ウクライナ侵攻のときには、第一次大戦のときの日本の立場を思い出し、「遠くの戦争は買い」相場、というどこかで聞いた標語を信じて、資源株や金融株を買いはじめ、海運株も遅まきながら追加した。誰かの不幸で利益を得ることを目指しているようで胸が痛い。
他の投資家は、こういった不幸な社会的・歴史的な事件、災害が起きた時に自分の内面に起きる人間としての素直な情緒的な反応と株式投資の姿勢をどのように折り合いをつけているのだろうか。全く気にならない人もいるのだろうか。あるいは、投資行動をいったん停止するのだろうか。
他者の不幸を我がごととして抱き、心を寄せることは人間らしいふるまいである。しかし、その苦しみとの距離が近すぎると、ともに苦しみの中に寄り添い続けてしまう。他者と我との距離を知り、その距離がマーケットの中でどのように消化され、投射されていくのか。市場は、不特定多数の他者の妄想を取り組みつつ、現実に引き渡す場所なのだ。
私はマーケットの中に、大勢の人のささやきを聴くような気がする。
ニューヨーク証券取引場は、市場の始まりと終わりの一日にそれぞれ鐘を鳴らす。世界中の金のうねりを象徴する場所で鳴らす鐘の音は、祝祭なのか、葬礼なのか、鐘を鳴らすイベントをニュースで見るたびに、あの鐘は誰がために鳴るのだろう、と思うのであった。
執筆:黒猫投資家(猫と人間のほんとうの幸せを探求する女性個人投資家)
猫と人間のほんとうの幸せを探求する女性個人投資家が紡ぐ不動産、株、投資信託物語
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株式市場に向き合うときの引き裂かれた心情について